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産廃処理のジャンヌ・ダルク 迷惑施設の声、覆す

まさに「異端力」。異端視されても業界の常識を打ち破る覚悟を常に秘め、強い信念で周りの人たちの見る目も変えていく姿に頭が下がる。

 

日経産業新聞:2015年2月28日)

埼玉県南部の三芳町に毎月500人が訪れる産業廃棄物処理業者がある。家屋やビルの廃材を扱う石坂産業。訪問者は小学生から、トヨタ自動車など企業関係者、駐日大使まで様々だ。「燃やさずにほとんどリサイクルできます」。社長の石坂典子(42)がにこやかに見学コースを案内する。

ダイオキシン騒動、崖っぷちからのスタート

 その後は建屋を取り囲む広大な森林へ。「夏にはホタルも見えるんですよ」。石坂産業が地権者から借りて徐々に広げてきた里山だ。広場には喫茶店があり、周辺住民の憩いの場でもある。産廃と自然。意外な結び付きが磁力となり、全国から見学者を引き寄せる。

 なぜ産廃業者が森を守るのか。理由は女性社長の足跡をたどれば見えてくる。

 崖っぷちからのスタートだった。いまの里山がまだ「産廃銀座」と呼ばれていた1999年。所沢産野菜からダイオキシンが検出されたという一部メディアの報道を引き金に、地元農家に風評被害が広がった。

 産廃業者に対する住民の反対運動はエスカレートした。「町から出ていけ」。すでにダイオキシンが出ない焼却設備を備えていた石坂産業も周囲を取り囲まれた。取引先からも次々と契約を打ち切られた。当時の石坂は営業本部長。「このままではつぶれる」。危機感は日増しに強まった。

 「世の中に欠かせない仕事なのに、なぜ悪者扱いされるのか」。創業者の父、好男(72)は何度も嘆いた。悔しさをにじませる父の姿に、自らの手で会社を復活させたいとの思いを強くする。「私が社長をやるよ」。気がつけば訴えていた。好男は「女にできる仕事じゃない」と相手にしなかったが、最後は熱意に負けた。

 「脱・産廃屋」。2002年に社長に就いた石坂は自己否定とも取れるスローガンを掲げた。産廃処理の存在意義をもっと理解してもらうには、業界の常識を打ち破る必要があった。

 まず手をつけたのが社風の変革だった。男性ばかりの職場は雑然としていた。たばこの煙がこもる休憩所には、どこからかテレビや冷蔵庫が持ち込まれ、勤務中でもたまり場になっていた。たまりかねた石坂は恐る恐るドアを開け、声を張り上げた。「何やってんの。働きなさいよっ」

 午前10時、午後5時の2回、自ら職場を巡回し、隅々に目を光らせた。サボる社員には「辞めてしまえ」と罵声を浴びせた。古株の男性社員らには何度もにらまれ、インターネットには「社長、うざい」と書き込まれた。社員の4割が辞めたが、平均年齢は当時の55歳から35歳まで若返った。今では女性も増え、社風は一変した。

 

環境負荷軽減へ巨額投資

 起死回生の大勝負にも出た。土砂、木材、廃コンクリートや廃プラスチックを処理する設備をすべて屋内に封じ込める計画を打ち出した。通常は露天で分別・焼却するが、屋内の方が環境への影響は小さい。排ガスを出さない電動式ショベルカーも導入した。

  当時の売上高の約2倍にあたる40億円を投じる巨額投資。ダイオキシン騒動のさなかであり、建設を申請する役所の窓口も冷淡だった。「あんた、本当に社長なのか」。女性であることも不利に働いたが、粘り強い説得で認可取得に成功した。「迷惑産業のイメージを変えたかった」。産廃業者のリサイクル率は一般に80~85%とされるが、石坂産業は95%と突出する。

 周囲の雑木林を再生する「里山プロジェクト」を始めたのはこの頃。石坂にとって自然保護の取り組みに向かうのは当然の流れだった。かつて周辺住民に取り囲まれた石坂産業は住民が集い、内外の注目を集める「環境先進企業」梅田専太郎に生まれ変わった。15年8月期の売上高は約45億円を見込む。 

 「所沢のジャンヌ・ダルク」。挫折を乗り越え、会社の危機を救った石坂はこう呼ばれる。細長い指先には凝ったデザインのネイルアートが施され、長い茶髪にはメッシュが走る。華やかな風貌と大胆な行動力。異端視されても業界の常識を打ち破る覚悟を常に秘め、「これからは大学との共同研究や海外進出にも取り組みたい」という。

 どん底を思い出し、不安になることがある。そんなときは愛車の米クライスラーのスポーツカー「ダッジ・チャレンジャー」のハンドルをぐっと握る。「まだまだできる。やれるんだ」。アメ車のエンジン音に自らの声を乗せ、奮い立つ。